06越智 本日は、PMDAの理事長としての立場から、貴重なお話を伺えることを大変楽しみにしておりました。まずは、先生の幼少期からお聞かせください。どのようなお子さんだったのですか。藤原 あまり模範的な子どもではなかったですね。小学生の頃は典型的なガキ大将で、先生が「藤原くんと遊んではいけません」と言うほどのいたずらっ子でした。塾には通っていませんでしたし、勉強もそれほど真面目に取り組んでいませんでした。幼少期から油絵を習い、100号級の大作を描いたこともありますが、小学生の頃はサッカーに夢中でした。越智 油絵にサッカーとはなかなか幅が広いですね。子ども時代は比較的自由にされていた様子がうかがえます。藤原 ええ。中学・高校も「制服がカッコよかったから」という理由で、広島学院中学校・高等学校へ入学を決めるような子でした。越智 中学・高校時代に興味を持たれた科目はありましたか。藤原 好きな科目は、地理や地学、化学で、高校からは古文や漢文も好きになりました。越智 物理はどうですか。おじい様も、お父様も、広島大学の物理学の教授でしたね。ところで、大学でもサッカーをされたのですか。藤原 残念ながら、物理は嫌いでしたね。数学もあまり得意ではありませんでした。クラブ活動は、最初サッカー部に入部したのですが、軟式テニス部の先輩に「人数が足りないから来てくれ」と誘われ転部しました。越智 私も大学入学時、硬式テニス部に入ろうと考えていたのですが、先輩の勧誘で同じ、軟式テニスを始めました。さて、先生は医学部に入学されたわけですが、おじい様やお父様は理学部の教授でおられたのに、なぜ医学部に進まれたのですか。藤原 祖父や父は、いわゆる研究者タイプの人たちで、私には変わり者に感じられました。一方、母方はみんな医師で、母の父親は岡山大学の医学部第二内科教授を務めていました。双方を比べ、こちらの方が自分に合っていると考え、医学部へ進みました。越智 医学部の何科に進みたいといった具体的な希望はありましたか。藤原 当時はなかったですね。それより学生時代は軟式テニスに夢中でした。一番の思い出は、やはり優勝ですね。熊本で開かれた西日本医科学生総合体育大会の熊本大学との団体戦決勝で、最終まで勝敗がつかず、最後の私のペアの勝利で優勝が決まりました。その時は感無量でしたね。越智 それは忘れられない思い出ですね。ところで国家試験の勉強はどうでしたか。 学業には真面目に向き合われていなかったと、何かのエッセーで見かけましたが。藤原 危なかったですね。6年の時、札幌で開かれた全日本医科学生総合体育大会王座決定戦で団体優勝しました。メンバーと北海道を一周して帰ったところ、同級生らが一生懸命勉強していました。「これはまずい!」と相当焦りました。ただ、当時は国家試験が年2回あった頃だったので、そこから巻き返し、何とか試験を突破しました。越智 国家試験を受けられる前、どこへ行くか決めておられたのですか。藤原 ええ。学生の時に第一病理で発がん実験をさせてもらっていたので、「患者の病気の原因を正確に特定する病理医になりたい」と考えていました。当時、国立がんセンター研究所の病理部の室長に広島大学出身の先生がおられたので、お願いして1カ月ほどインターンのようなことをさせてもらいました。その時の病理部長の先生は米国から帰国直後で、その先生に憧れたのも病理を志した一因です。しかし、その方に「卒業したら国立がんセンターに入り、病理をやりたいです」と訴えたところ、「病理医ですぐ飯が食えるわけじゃないから、診療のアルバイトができるように手に職をつけなさい!」と言われました。そこで忙しい救急指定病院なら、多くの貴重な経験が得られると考え、卒業後入局した広島大学医学部第二内科の西本教授に、呉共済病院を紹介してもらいました。2年ほど勤務した後、呼吸器内科へ移りましたが、臨床医の面白さもそこで知りました。越智 呼吸器内科は、1986年に国立がんセンターのレジデント(研修医)になられてからも2002年くらいまで続けられたそうですね。その後、院長から腫瘍内科全般、特に乳がんをやってもらいたいと言われたとお聞きしました。ガキ大将だった幼少期(6歳)西日本医科学生総合体育大会で優勝した軟式テニス部の仲間とともに(後列右が藤原氏)幼少期絵心あるガキ大将テニスは全国制覇国家試験は危機に病理に憧れ臨床の面白さも知る
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