広島大学案内2023-2024概要版
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06越智 松本先生には、理化学研究所の理事長時代の2018年に本学にお越しいただき、研究協力や人材育成などに関する協定の締結や、共同研究拠点の設置などでお世話になりました。現在は、「人類の未来と幸福のために、何を研究すべきかを研究する」を基本理念としている国際高等研究所の所長として、ますますご活躍のこととお聞きしています。今日はいろいろなことをお聞きしたいと思います。まずは、先生の幼少期はどんなお子さんだったのですか。松本 生まれたのは、中国河北省張家口ですが、1歳までに現在の奈良県大和郡山市へ引き上げたので、どんなところだったかはよく覚えていません。当初、祖父の家に身を寄せていましたが、5歳の頃からは、ある事情により、家族5人が、わずか六畳一間の借家で暮らすことになりました。生活は厳しい上、母は勉強に厳しい人でした。テストで100点を取らないと怒られ、99点の答案を見せても、『1点はどないしたんや! 先生の話を聞いてへんかったんやろー』って叱られました。そんな私の勉強法は、いわゆる一夜漬け。テスト前に教科書やノートの内容を、声を出して読んで記憶するといった勉強をしていました。越智 勉強には厳しいお母さんだったのですね。しかし、先生が話された授業の内容はもちろん、ノートも教科書も全部覚えておられたのですか。松本 勉強は嫌いではないけれど、取り立てて好きでもありませんでした。ただ、記憶力で試験の成績が良いだけで、真の実力ではないから、自慢することではありません。小学校の頃、人の嫌がる掃除をいつも率先してやる女の子がいて、子供心に「こういう人が本当に素晴らしい人だ」と思っていました。その後、陰徳という言葉を知り、こういった女の子のように陰徳を積んだ人こそ、真に社会を支えている人だと考えています。越智 その後は、奈良女子大学附属高等学校に進まれましたが、高校での思い出や、京都大学を希望された経緯をお聞かせください。松本 奈良女子大学附属高等学校時代は、1学年150人程度、小学校から上がってきた子は、ファッションが洗練されていました。私のクラスは50人中、女子が27人と多いクラスでした。昼休みに毎日フォークダンスが開かれている学校で、学年別にダンスの輪があり、お目当ての女の子に当たるようみんな燃えていたのを覚えています。進学についてはぎりぎりの生活でしたので、下宿代がかかる東京は諦め、京都大学と大阪大学でどちらが地元の奈良に近いかと考え、京都大学を受けました。当時は、京都大学が何の大学で、どんなことができる大学なのかも知らずに受験しました。越智 先生の時代の進学には経済的な影響が大きかったのですね。またさまざまなメディアが溢れる現在と異なり大学の情報は限られていたのですね。先生はその中にあって工学部を選択された理由は何だったのでしょう。医学部とかは選択肢にはなかったのですか。松本 そうですね。医者になるにはお金がかかり、理学部や文学部は、就職が難しい。しかし、その当時、工学部は就職に有利でしたので、経済面から工学部を選びました。電子計算機が注目された頃だったので、『それならいっそ電子工学を受けよう』と、あまり深く考えずに受験しましたね。越智 ほかにも学びたい学問領域もあったと思いますが、就職に有利と言う理由で工学部を選ばれたのですね。京都大学ではどんなキャンパスライフを過ごされたのですか。松本 授業は真面目に出席しました。奈良から京都まで、通学時間は、往復で3時間、奈良ではアルバイトをしていたので、大学にいる時が、唯一の自由時間でした。1・2回生の時は、友人と野球などで遊べましたが、3回生以降は、専門講義が増え、難しくなりました。越智 私が教授を退任する時の最終講義の題目は「人生は風任せ?」でした。先生のお話からすると、岐路に立たれた時、経済面から判断された場合もあったのでしょうが、一面では、その時の「運」に身を任せられていたようにも感じるのですが。松本 その通りです。ただ、私の場合、決断する時に参考となる情報自体が少なかったですね。その少ない情報を誰から得ていたかというと「運」でしょう。そう考えると「運は人次第」ですね。よく勉強し、あるいは、両親が博学の家庭だと、さまざまな情報に触れることができますが、私のように勉強が好きというわけではなく、父は帰宅時間が夜遅く、母は大学を卒業していないような家庭では、情報は友人や先生に限られます。そう考えれば誰と関係するかは、本当に「運」ですね。越智 そうしますと、大学院を目指された時は、友人や先生の助言などの情報をもとに決められたのですか。電子工学科を志望されたのは、電子計算機に興味を持たれたからとお聞きしましたが、大学院では、宇宙プラズマに関する研究を専攻されましたね。松本 そうです。電子計算機に憧れて入ったのですが、いざやってみると、そこまで面白くなかったのです。そこで大学院では、マイクロ波エンジニアリングを研究しようと、その研究室をノックしたのですが、担当教授が他大学へ異動されるため、入れませんでした。当てが外れ、困りましたが、それならその研究室の左右にある部屋を訪ねようと考え、『えいっ!』と右の研究室を開けると、前田憲一(1909-1995)先生がおられたので、『大学院で取ってもらえますか?』と尋ねると『いいよー』の一言で快諾され、電波工学の研究が始まりました。学生時代に家族で撮影したスナップ写真(後列右が松本氏、1961年頃)日々の生活より、母は勉強に厳格「運」は身近な友人や先生次第「えいっ」と右を選んで宇宙電波工学へ

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